印旛

 

東経 140度12分30秒(役場)  北緯 35度46分33秒(役場)  面積 4,657ha

千葉県北西部、印旛郡の村。人口10,131人(2000年1月1日現在)。印旛沼北岸の台地上に位置する。1969年に印旛沼干拓事業が完成し、水田面積が増えた。農業の中心は米作で、畑地では野菜が生産される。印旛沼に三方を囲まれ、1960年代に印旛大橋、甚平衛大橋が開通するまでは、対岸の佐倉、成田との交通は不便だった。西部の台地の一部が千葉ニュータウンの開発区域に含まれ、北総開発鉄道の開通とあわせ開発が進められている。聖武天皇の勅願により開創されたといわれる松虫寺の七仏薬師如来、泉福寺の薬師堂は国の重要文化財に指定されている。

(平凡社刊 世界大百科事典より)
 
村の木 大王松
昭和46年3月13日制定
村の花 やまゆり
平成2年11月1日制定
村の鳥 カイツブリ
平成2年11月1日制定
村の魚 なまず
平成2年11月1日制定


印旛村民憲章

私たちは印旛沼に囲まれ、水と緑の自然に恵まれた印旛村民です。輝かしい未来に向かって、より豊かな住みよい村をつくるためにこの憲章を定めます。みんなで心をひとつにして、この憲章を守りましょう。
1.私たちは、自然を大切にし、文化を高め、うるおいのあるむらをつくりましょう。
1.私たちは、老人を敬い、子供を愛し、思いやりのあるむらをつくりましょう。
1.私たちは、スポーツに親しみ、教養を深め、生きがいのあるむらをつくりましょう。
1.私たちは、きまりを守り、礼儀をわきまえ、信頼のあるむらをつくりましょう。
1.私たちは、創意をこらし、勤労を尊び、活力のあるむらをつくりましょう。

ふるさと印旛歴史ものがたり

約一万年〜三千年前、いわゆる縄文時代のいずれかの時期に、下総台地の浸食谷が地殻変化によって大きな湖沼となりました。この沼の周辺の台地は、気候温暖、水利にも恵まれていて、人が住むには最適の環境でした。このことを裏付けるように、村内には先土器時代から縄文、弥生時代にわたる先人たちの貝塚や遺跡が数多く散在し、石斧や矢じり、土器、埴輪、住居跡などが発見されています。大陸から稲作が伝わり、青銅器や鉄器を使用するようになった弥生時代に入ると、豊かな湖沼の水利を求めてますます人々が移り住むようになりました。

大和朝廷が古代国家を建設すると、印旛村域では、伊都許利命(いつこりのみこと)が印波国造に任じられ、支配していたことが『国造本記』に記されています。平安時代中期、朝廷が内紛により統率力を失うと、なかには朝廷に反旗をひるがえす勢力も出てきました。下総国を根拠とした平将門もその一人で、次々に周辺の地方官吏、豪族を攻め滅ぼし、一時は“新皇”を唱えるほどでした。将門は反逆者として、やがて攻め滅ぼされますが、印旛地方では、過酷な税を要求する朝廷に立ち向かった“英雄”として崇拝、信仰されています。

平家一族が実権を握った時代、印旛地方は印東荘と印西荘、臼井荘といった荘園があり、印旛村域臼井荘を領していたのは、千葉氏の流れをくむ臼井氏でした。源頼朝が決起すると、領主の臼井常康は千葉常胤とともに平氏討伐にめざましい活躍をしました。しかしその後、戦国の世を迎えると、強固な結束を誇った千葉氏一族も内紛を重ね、臼井氏も骨肉相食む闘争の果て、小田原北条氏が豊臣秀吉に敗れると、歴史の表舞台から消えてしまいました。

江戸時代に入ると、印旛村域には、瀬戸、山田、平賀、吉高、萩原、松虫、岩戸、師戸、鎌刈、大廻、造谷、吉田の十二ヶ村があり、はじめ幕府領、旗本領が混在していましたが、元禄十四年には、全ての村々が佐倉藩領になりました。佐倉城主には、代々譜代大名が配置され、寺社奉行や大阪城代、老中など幕府の要職を経験した者が任ぜられました。なかでも堀田正睦は、日米修好通商条約の締結にも活躍、藩政の面でも名君として知られています。江戸時代の印旛地方の農民は、佐倉宗吾郎の悲話で象徴されるように、重い年貢取り立てと、小金牧への将軍の鹿狩りに伴う労役、水戸街道我孫子宿への助郷(人足負担)などに苦しめられました。これに加え、毎年のように印旛沼の氾濫による洪水被害に見舞われていました。幕府は、享保年間より印旛沼の干拓、治水、水運の大工事を計画、着手しましたが、利根川の相次ぐ氾濫、幕府の中枢にあって計画の推進役であった老中・田沼意次、水野忠邦の失脚などで工事は中断されました。

明治維新を迎えると、行政組織もめまぐるしく変化し、印旛村域も明治四年には印旛県、六年には千葉県に属し、二十二年には十二の村々がそれぞれ六ヶ村づつ合併し「六合村」と「宗像村」が誕生しました。明治期の印旛地方の産業といえば、農業が中心で、なかでも養蚕が盛んに行われ、また印旛沼の淡水漁業も全盛をきわめ、農村に活気をもたらしました。しかしその一方では、印旛沼周辺に住み暮らす者の“宿命”として、しばしば洪水に見舞われ、田畑が全滅したり、家屋が流されるなどの被害を甘んじなければならなかったのです。

戦後、昭和二十一年には印旛沼干拓事業が始まり、洪水被害も徐々に解消されていきました。六合村と宗像村が合併、現在の印旛村が誕生したのは、昭和三十年のこと。当時の人口は八千五百人でした。その後、わが国の重化学工業を中心とした産業振興とこれに伴う都市発展により、若い世代が農業を離れ、都市に流出する傾向が強まり、村内は過疎化現象に見舞われました。しかし、昭和五十三年の成田空港オープン、国際空港都市としての成田市周辺の市街化など印旛地方にも開発の波が打ち寄せるようになりました。印旛村域は、都心から50km圏内に位置しながらも、東京方面に対し、印旛沼が交通の障害となり、交通網の空白地帯として、昭和三十年代後半から四十年代の高度経済成長時代にも乱開発を免れ、豊かな自然環境が残されています。印旛村では、平成四年度より新総合計画のもと「水と緑と人のふれあう印旛村」を目指して、豊かで幸せな暮らしを育む“健康医療学園都市づくり”、21世紀の活力を担う“身近な職場づくり”、都市化と高齢化に対応した“温かなコミュニティづくり”を進めていきます。

(平成9年4月 印旛村役場発行 '97印旛村勢概要より抜粋)